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北九州・直方市に位置するたかとり霊園は、直方・八幡西区・東区・田川・中間・飯塚などを中心とした1,700家族様に、30年以上に渡ってご利用いただいております。

歴史

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永満寺の経筒のイラスト

永満寺の経筒

 昭和五年、永満寺の鷹取山の麓にある永満寺阯といわれる所の土の中から、陶製、青銅製などの経筒が十数個発見されました。経筒の中の経本はすでに朽ちはてていましたが、経筒の数が多かったこと、さらに、年号が彫られた経筒が二個ふくまれていたことから、この発見は学術的にも非常に貴重なものでした。
一つの経筒には天永{てんえい}元年(一一一〇年)の年号が、また他のものには永久{えいきゅう}三年(一一一五年)の年号が刻まれていました。

 経筒というのは、法華経などの経本を入れて土中に埋める筒のことですが、これは、仏教の末法{まっぽう}思想と深いかかわりがあるものです。

 末法思想というのは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて日本に流行し、人心を支配した仏教思想で、それによれば、仏教を始めた釈迦{しゃか}が死んだあと、千年は正法{しょうぼう}の時代(釈迦の教があり、それを実行する人がおり、その結果があらわれる時代)が続き、その後の千年は像法{ぞうぼう}の時代(教とそれを実行する人はあるが、そのあかしがあらわれない時代)となり、それに続く一万年は末法の時代(釈迦の教はあるが、それを実行する人はなく、したがって結果もあらわれない時代)になるというのです。つまり、仏教は形だけのものになってしまうというのです。

 いつ末法の時代が始まるかについては色々な説がありましたが、日本では永承{えいしょう}七年(一〇五二年)に末法の時代に入ったという説が一般的でした。

 末法の時代を迎えた人々は、不安におののきました。救いを弥勒{みろく}信仰に求めました。弥勒は釈迦に先立ってこの世を去り天上に昇った仏ですが、五十六億七千万年後にもう一度この世に下って人々を救うと伝えられている未来仏です。

 末法が続けば、やがて経本も失われてしまうだろう。弥勒が再来したとき経本がなくては困るからそれに備えて経本を大切にしまっておこうと考えた人々は、経筒の中に経本を納め、経塚をつくってこれを保存したのです。永満寺出土の経筒も、ほぼ末法に入った時につくられたもので、末法思想の証となる貴重な文化財なのです。

 色々な宗教の歴史を秘めた永満寺の経筒は、現在、直方を離れ、東京の国立博物館にあって、来館者に、私たちの先祖の心の遍歴を語り続けています。

■文

舌間信夫(したまのぶお)

1927年生まれ。明専(現・九州工業大学)を卒業して教職に入り、退職後は郷土史の研究と詩作に専念している。郷土史関係では、「直方むかしばなし」、「直方碑ものがたり」、「ふるさと直方人物史」、「直方歴史ものがたり」、「続直方歴史ものがたり」、「直方文芸史」、などを執筆。詩関係では、詩誌「新詩人」、「匈奴(ふんぬ)」を経て、現在、「匈奴の森」を主宰している。1989年、詩集「哀しみに満ちた村」で、福岡県詩人賞を受ける。1995年、詩集「湖の物語」を上梓。日本現代詩人会会員。九州文学同人。

■イラスト

故 赤星月人

1926年、高知県生まれ。1945年、徴兵、陸軍入隊。1951年、金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)日本画家卒、直方にて教職に就く。1957年、第11回二紀展初入選。1962年、渡米、シアトル市の美術学校留学、シアトルノースウェスト展でグランプリ受賞、その後渡欧、エジプト、東南アジア等外遊。1965年、帰国、鞍手高校講師となる。1967年、第21回二紀展、同人推挙、この後、チャリティ色紙展5回開催。2007年、赤星月人挿絵展を直方谷尾美術館にて開催。“市報のおがた”の舌間信夫氏の文章への挿絵(1978~2007年まで355回)の原画展。この個展の二ヵ月後、9月に81歳にて他界。

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