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北九州・直方の霊園、お墓・墓地、墓石は「たかとり霊園」へ

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北九州・直方のたかとり霊園は、北九州都市高速 金剛ランプから車で7分と大変アクセスしやすい場所に位置しております。

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たかとり霊園について

北九州・直方市に位置するたかとり霊園は、直方・八幡西区・東区・田川・中間・飯塚などを中心とした1,700家族様に、30年以上に渡ってご利用いただいております。

歴史

歴史
鷹取城と雲取城のイラスト

鷹取城と雲取城

 戦国時代、博多は海外貿易の拠点として栄えていました。この博多を抑え、富と九州の覇権{はけん}を握ろうと、各地の豪族が兵を動かしました。山口の大内氏は北九州へ軍を進め、佐賀の竜造寺{りゅうぞうじ}氏は東進、大分の大友氏、鹿児島の島津氏が北上しました。

 このうち大内氏は、宗像郡の蔦ヶ岳{つたがだけ}城(宗像氏貞{うじさだ})、鞍手郡六ヶ岳の龍ヶ岳城(杉連並{つらなみ})、八幡西区の花尾城(麻生家氏)、八幡西区の畑城(香月興則{おきのり})、畑城の出城・雲取城(麻生鑑益{あきます})などを傘下{さんか}に収め、また大友氏は、鷹取城(毛利鎮実{しげざね})、粕屋郡の立花城(立花道雪)、太宰府の宝満城(高橋紹運{じょううん})などを従え、共に譲らず、筑豊を主戦場として度々激突しました。

 天正{てんしょう}年間(一五七三年~一五九二年)のことです。福智山麓では、大友方の先鋒・鷹取城の 毛利鎮実と、大内方の先鋒・雲取城の 麻生鑑益が鎬{しのぎ}を削っていました。毛利は、麻生を味方に引き入れようと、使者を送り、「近く、大友の殿が、大軍を率いて北上されることになった。戦になれば、雲取城は一溜{ひとたま}りもあるまい。どうであろう、この際、大友殿に加担されては、私から大友殿に口添えしよう」と持ちかけました。麻生は熟慮の末、一族の将来を思って大友方に就くことに同意しました。ところが、上頓野にあった畑城の見張所・髻{もとどり}の砦{とりで}の上杉興房がこれを察知し、畑城に注進したため、興則が憤激、手勢を率いて雲取城を急襲したのです。不意を突かれた雲取城は、鷹取城からの救援も空しく、ついに落城してしまいました。

 上頓野の安入寺の御立城{おたちしょ}という所に麻生墓と呼ばれる石祠{せきし}があります。雲取城落城の時に戦死した麻生一族を祀る墓といわれています。木屋瀬の麻生氏の後裔{こうえい}が建てたもので、木剣などを上げて祈願する人が後を絶ちません。

 また頓野に四十塚という地名があります。同名のバス停もあります。雲取城が落城した時、落ち延びた婦女子四十人が、香月勢に追いつかれ、ここで皆殺しに遭ったといわれます。その後香月の地で、次々に変事が起こり、討たれた人々の祟{たた}りではなかろうかと、香月氏が墓を立てて弔ったそうです。四十塚という地名の由来です。大正十五年の『頓野村合併記念誌』には「小山の頂に小石を積めり。高さ二尺余、周三丈、側に小松茂りおりたるが由伝えられるも、今はその石散乱してなし」とあります。戦国の世の戦乱の記憶が、今も、地名、バス停名に残っているのです。

■文

舌間信夫(したまのぶお)

1927年生まれ。明専(現・九州工業大学)を卒業して教職に入り、退職後は郷土史の研究と詩作に専念している。郷土史関係では、「直方むかしばなし」、「直方碑ものがたり」、「ふるさと直方人物史」、「直方歴史ものがたり」、「続直方歴史ものがたり」、「直方文芸史」、などを執筆。詩関係では、詩誌「新詩人」、「匈奴(ふんぬ)」を経て、現在、「匈奴の森」を主宰している。1989年、詩集「哀しみに満ちた村」で、福岡県詩人賞を受ける。1995年、詩集「湖の物語」を上梓。日本現代詩人会会員。九州文学同人。

■イラスト

故 赤星月人

1926年、高知県生まれ。1945年、徴兵、陸軍入隊。1951年、金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)日本画家卒、直方にて教職に就く。1957年、第11回二紀展初入選。1962年、渡米、シアトル市の美術学校留学、シアトルノースウェスト展でグランプリ受賞、その後渡欧、エジプト、東南アジア等外遊。1965年、帰国、鞍手高校講師となる。1967年、第21回二紀展、同人推挙、この後、チャリティ色紙展5回開催。2007年、赤星月人挿絵展を直方谷尾美術館にて開催。“市報のおがた”の舌間信夫氏の文章への挿絵(1978~2007年まで355回)の原画展。この個展の二ヵ月後、9月に81歳にて他界。

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