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北九州・直方市に位置するたかとり霊園は、直方・八幡西区・東区・田川・中間・飯塚などを中心とした1,700家族様に、30年以上に渡ってご利用いただいております。

歴史

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山伏の歩いた道のイラスト

山伏の歩いた道

 英彦山{ひこさん}に鎮座する彦山権現{ごんげん}を祭る彦山修験道{しゅげんどう}は、神と仏を同体と見る神仏習合{しゅうごう}の山岳宗教です。

 修験道の修行をする人たちを山伏{やまぶし}といいます。山伏の社会は、惣方{そうがた}、衆徒方{しとがた}、行者{ぎょうじゃ}方の三集団に分かれていました。惣方は、主として御田祭{おんださい}・神幸式などの五穀豊穣{ほうじょう}を祈願する神事を司り、衆徒方は仏に関係のある行事を受け持ち、行者方は峰入{みねいり}などの山岳での修行{しゅぎょう}を主宰しました。そしてそれらを統括するのが座主{ざす}でした。

 行者方の峰入は、春峰・夏峰・秋峰の三回行われました。春峰は、彦山から宝満山{ほうまんざん}まで往復するもので約百三十kmの行程でした。夏峰は春峰と同じ行程。秋峰は彦山と福智山を往復するものでした。どのコースにも宿{しゅく}と呼ばれる行場{ぎょうば}(修行をする場所)が四十八箇所設けられていて、その一つ一つで行{ぎょう}をして行くのです。

 秋峰のコースは、彦山を出発、数日をかけて田川郡の添田、大任{おおとう}、糒{ほしい}を抜け、弁城{べんじょう}の岩屋神社で一泊。上野の福智中宮神社で一泊。上境に入り、ここから下境の藤棚へ往復、永満寺、畑を通り頓野の安入寺で一泊。それから尺岳に上り、峰を伝って福智山頂に向かうものです。山頂には、彦山権現から分社された福智権現を祭る社があり、そこに一泊します。その後、金辺{きべ}峠の方へ降り、香春、赤村を通って英彦山に帰る、というのが一般的でした。

 峰入り山伏の一行は、先達{せんだつ}と呼ばれるリーダー二人、度衆{どしゅう}と呼ばれる峰入り経験者五人、新客{しんぎゃく}と呼ばれる初めての参加者十人の計十七人で構成され、頭に兜巾{ときん}と呼ばれる小さな帽子を載せ、篠懸{すずかけ}と呼ばれる麻の上下衣を着、胸に袈裟{けさ}をかけ、手には念珠{ねんじゅ}や錫杖{しゃくじょう}を持ち、横笈{おい}と呼ばれる藁製のリュックサックを背負い、法螺貝{ほらがい}を吹きながら歩いたといわれます。

 享和{きょうわ}三年(一八〇三年)の秋には、彦山座主が三百五十人の山伏を従えて峰入をしたとの記録も残っています。

 明治に入って神と仏を分離する政策がとられたため、修験道も衰え、山伏の峰入も終わりましたが、私的な小規模のものは、断続して明治の終わりまで行われていたといいます。その頃の峰入を見た上境の古老の話では、山伏は、強行軍のため疲れていて、眠りながら歩いていたので「居眠り山伏{やんぶし}」と呼ばれ、また畑の日吉神社に着くと、修行の一環として、大きな掛け声を掛け合って相撲を取っていたそうです。

■文

舌間信夫(したまのぶお)

1927年生まれ。明専(現・九州工業大学)を卒業して教職に入り、退職後は郷土史の研究と詩作に専念している。郷土史関係では、「直方むかしばなし」、「直方碑ものがたり」、「ふるさと直方人物史」、「直方歴史ものがたり」、「続直方歴史ものがたり」、「直方文芸史」、などを執筆。詩関係では、詩誌「新詩人」、「匈奴(ふんぬ)」を経て、現在、「匈奴の森」を主宰している。1989年、詩集「哀しみに満ちた村」で、福岡県詩人賞を受ける。1995年、詩集「湖の物語」を上梓。日本現代詩人会会員。九州文学同人。

■イラスト

故 赤星月人

1926年、高知県生まれ。1945年、徴兵、陸軍入隊。1951年、金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)日本画家卒、直方にて教職に就く。1957年、第11回二紀展初入選。1962年、渡米、シアトル市の美術学校留学、シアトルノースウェスト展でグランプリ受賞、その後渡欧、エジプト、東南アジア等外遊。1965年、帰国、鞍手高校講師となる。1967年、第21回二紀展、同人推挙、この後、チャリティ色紙展5回開催。2007年、赤星月人挿絵展を直方谷尾美術館にて開催。“市報のおがた”の舌間信夫氏の文章への挿絵(1978~2007年まで355回)の原画展。この個展の二ヵ月後、9月に81歳にて他界。

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